タニカワ久美子の講演スピーチ
タニカワ久美子のキャリアパス&リカレント物語第2話
2024年12月29日更新
2024年を振り返って
2024年も余すところ、3日を切りました。皆さまは2024年をどのような一年として過ごされましたか?私はスピードを出すことはできませんでしたが、自分のこれ以上ない力を振り絞り、全力で1年を猛ダッシュしてきました。腕の振り方が悪かったのか、足の上げるタイミングが悪かったのか、もしくはもともとの運動の素養がないからなのか分かりませんが、思うような結果も人生も歩めていませんでした。しかし、今の私を形成した過去を振り返るのは好きではありませんが、この年末年始は少しだけ振り返り、新年のあり方につなげようと考えています。それではまいります。前回は、私の暗い小学校時代のお話でした。今日は、その続きとして中学校時代からお話します。
中学校にはいって良くなったこと
中学校の授業での体育は、小学校と違って「体育」に「保健」が追加されました。そのおかげで保健のペーパーテストがあり、成績も10段階評価で真ん中あたりになりました。中学校の入学当初は学年で目立つほど大柄な生徒でしたが、高校を卒業する頃には、成長が身長も体重も止まり、標準域のBMIになっていました。その頃の私は、何に打ち込むわけでもなく、勉強もせず他力本願ののほほんとした人間でした。自分の気持ちを声に出して言うことが苦手で大人しい性格でしたので、友達もほとんどいませんでした。
大学時代の葛藤と成長
そんな私でしたが、50歳を過ぎて手に職がなく働き口がなくなるのは嫌だと、母の姿を見て感じ、管理栄養士養成の大学へと進みました。まあ、あの頃の私は、自分の頭で考えるということができず、否、そういう発想さえなくて、のほほんと暮らしていました。大学入学して2年間は、ほぼ引きこもりのような生活をしていました。3年生になってこれでは大学卒業の単位さえ危うい!就職どころではなくなり、卒業間近になって慌てて学生生活を送りました。正直、しょーもなかったですよ。体力も脳力も新鮮な10代を自ら棒に振った10代だったと思います。だからといってタイムマシーンやテレポーテーションがあったとしても、10代には戻りたくは決してありません。
社会人としての試練と専業主婦時代
そんな私が、何とか大学を卒業して、委託栄養士などを経て日立の管理栄養士として正社員の座を射止めました。でもお給料は安く、その頃は日本のバブルが終焉を迎え始めた時期で、「独身貴族」という流行語もありましたが、バブルの恩恵を一ミリも受けずに地味な20代を送っていました。そんな地味な生活ながら結婚をしました。結婚と同時に、片道2時間以上かかる本社勤務に異動通知があり、実質、私は会社から肩たたきを受けて退職しました。長く勤めたいと思うほど、やりがいも給与も何もなかったので、自分としても体裁の良い退職だったのです。そして10年間専業主婦をしていました。
クラシックバレエとの出会い
専業主婦の時代は、クラシックバレエに打ち込んでいました。こんな華やかな世界に自分でも当事者として加わることが嬉しかったです。そしてクラシックバレエはまぎれもない「運動」でした。運動種目の中で、初めて!唯一、私は楽しい!と思える運動を見つけたのです。しかし、そんな結婚生活が破綻しました。
離婚と人生の転機
今思うと、何もかも必然だったのです。他力本願で、パートナーの言うがまま、されるがままの生活でした。この辺の詳しい話は割愛させていただきますが、離婚後もDVが激しくなり、私は現金5万円とボストンバッグ1つを持って、何もかもを置いて大阪から新横浜まで新幹線で逃げました。もうどん底というより、これ以上の下はないというような精神状態でしたね。あの逃亡から数年間はテレビのニュースを見ることができませんでした。一歩間違っていたら、ボタンを掛け違えていたら、私は相手を殺していたかもしれない、否、殺されていたかもしれなかったからです。でも、人は、どうしようもないピンチが続くと覚醒するものかもしれません。私の人生は、まさにここから始まったと言っても過言ではありません。
第1話と第2話は、私の黒歴史から始まった他力本願でいつか白馬に乗った王子様がやってくる的な夢見る夢子の発想であったために、最悪の人生を選び取ってしまいました。ここから覚醒したタニカワ久美子のストレスコントロール人生が始まります。第3話をお見逃しなく!つづく
このエッセイを通じて、私の経験や成長をご理解いただき、少しでも興味を持っていただければ幸いです。新年もどうぞよろしくお願いいたします。